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インターネットから見える社会矛盾と人権
〜 インターネットから見える社会矛盾と人権 〜 (第14部)

メディア・リテラシー インターネット・テレビ・出版物などさまざまなメディアが伝える情報や価値観などをうのみにせず、主体的に解読する力をつけること。

 インターネットに限らずメディア一般の話になりますが、例えば、テレビ等の動物に関する番組で、野鳥が川魚を捕らえるシーンが放送されていることがあります。画面には、川で泳ぐ魚の水中の映像がうつされ、その魚を野鳥が川へ飛び込んでクチバシで捉えるシーンが映っています。それが野鳥の魚のとらえ方として放送されていますが、よく考えてみるとおかしいと思う点が出てきます。タイミングが良すぎるということです。カラクリは、川魚は本物でありますが、川に水中カメラを置いて撮影したのではなく、岸に水たまりをつくり、その水たまりにカメラを置き、枝をさし、魚を放す。そうすると必ず野鳥が水たまりに飛び込んできて、魚を捕まえる映像を撮影することができるというわけです。

他にも、イラク戦争の時に日本国内で報道されたイラクの現状と、実際にイラクで起きている現状は全く違うということを写真や書面、現地へ出向かれた方のレポートなどから知ることができました。生やさしい報道の仕方は、それを見る人に戦争の酷さを感じさせることができません。  日頃、私たちはテレビ、新聞などのマスメディアに接したり、バスや電車などの交通機関を利用するときに、広告を必ず見ています。  メディアは報道のみならず、玩具や本などでも同じように、さまざまな価値観やライフスタイルに関する情報も含んでいます。また、画面に登場する人々を通して、女性の魅力、男性にとって大切なことなどの価値観を植え付け、そうした価値観もまた社会に偏在し、私たちの生活の一部となっていることもあります。華麗な言葉による普遍化が最も象徴的と言えるでしょう。

 事件報道などは特に社会的偏見が迎合したかたちで報道されていることも少なくありません。テレビのニュース番組や新聞などの報道メディアは、その基本的な機能として、世界で起きたこと、また日本で起きたことを迅速かつ正確に人々に伝え、真実を追求することを期待されています。それは放送法の目的で謳われているように、「健全な民主主義の発達に資する」ためです。しかし、これまで不正確な報道や誤報、あるいはセンセーショナルな報道が繰り返され、メディアによって市民の基本的人権が侵害されてきた事例は少なくありません。二つ事例をあげたいと思います。

一つ目は、一九九四年六月二七日に起こった松本サリン事件です。サリン被害者であり、第一通報者であり、サリンの被害者であった河野義之さんは、偏見に基づく報道によって、それをそのまま正しい情報としてとらえた市民やマスコミによって加害者に仕立て上げられてしまいました。 報道では、「ガスの発生源が河野さん宅の敷地内であった」、「毒ガスは河野さんが薬品の調合を間違えて発生させた」、「河野さんが事件を認めている」という内容が全国的に発信され、それを視聴者や市民が鵜呑みにしたという歴史的な事実があります。

偏見が意識のなかにあるとどうなるか、一例をあげてみたいと思います。

河野さん自身がサリンの被害にあったとき、息子に「私はもうだめかもしれない」と病院に運ばれる際に発言されました。この意味は「私はこんな目にあったので、もう死ぬかもしれない」でした。しかし、メディアは息子さんに対し「お父さんは何か言っていましたか」と質問したところ、息子さんは河野さんの言葉をそのまま伝え、「父はもうだめかもしれないと言っていました」とそのまま答えられました。 すでにメディアは河野さんを犯人として捉えていたため、河野さん息子さんが言われた「もうだめかもしれない」を「こんなものをつくってしまって、警察にも疑われ、犯人だとばれてしまうかもしれない。だから捕まるかもしれない」と解釈してしまいました。そして、メディアの情報はすべて正しいものとしてとらえてきた市民は、本来の被害者を加害者と仕立て上げ、河野さんにサリンの被害以上の精神的な苦痛を与えていった現実があります。

 二つ目は、二〇〇七年に起きた香川県S市でパート従業員のMさん(五八)と、孫のAちゃん(五)、Aちゃん(三)姉妹が殺害された事件で、県警の坂出署捜査本部は二八日、死体遺棄容疑でMさんの義弟の、Kさん(六一)を逮捕しました。  私は事件内容というよりは、マスコミの報道に早くから問題視していた。中学生や高校生すらこう言いました。「姉妹の父親が犯人だ」。こういった印象をマスコミは市民にあたえ続けたのです。  松本サリン事件のことを学び、他のメディアのあり方についても一定の学習をしてくると、すぐにわかります。  この事件でKさんが逮捕され、犯人だとわかるまでの間、マスコミの多くは、「犯人は姉妹の父親である可能性が高い」という意識で取材を続けていきました。

 もっとも印象に残ったのは、記者が父親にマイクを向け、「この件について、どう思われますか?」と聞いたことでした。事件の被害家族に対し、母や娘の血痕が部屋中に散乱しているにも関わらず、手がかりがなかなか出てこなかったときの質問です。「これは疑っている」と強く感じました。

 結果的に父親が犯人であったとしても、証拠不十分な状況のなかで、マスコミの憶測によって確信的に報道することは、万が一誤っていた場合に、大きな被害をもたらします。香川県の事件については、早期に証拠などがそろってきましたが、報道される時間によっては松本サリン事件の報道被害の二の舞になっていた可能性は充分にあります。

つまり、メディアの報道などを当然のように読みとるのではなく、メディアはなにを伝えたいのかということを探れる力、物事の真偽を見抜く力、それを育むのが、「メディア・リテラシー」です。

メディア・リテラシーの観点は重要です。簡単に言うと、「情報をそのまま読みとるのではなく、情報を一度、批判的に捉えることによって真実を読みとく力を育むこと」です。テレビ放送や新聞が代表的であり、さまざまな情報を提供しているわけだが、視聴率がよければ当然さまざまな企業からの広告収入も増えていきます。視聴者や読者が何に関心があるのかということを独自で調べ推測し、今なにを重要とするのかを企業独自が判断し放送するために、小さなことが大きく取り上げられたり、その逆もあり、本当に重要なことが放送されないこともあり得るのです。

おとなでさえ、こうした情報を鵜呑みにしてしまうことがあるなかで、子どもたちにとって情報を正しく捉えることはさらに難しい状況にあります。おとなも幼少期には「刷り込み」といったかたちで思い込みや偏見が植え付けられてきました。現代の課題となっている「インターネットからの刷り込み」についても、正しいことを教え、歪曲された情報を批判的に捉えられる情報の真偽を見抜く力を、おとなと子どもの双方で高めていかなければならない時代にあります。情報というのは人間形成に大きな影響を与えているものなので、こういった観点は非常に重要です。

 テレビについては「何を撮るか」に取捨選択が働いています。その場面を肯定的に伝えるか、否定的に伝えるかは、編集次第でどうにでもできるのです。明るいBGMを流し、肯定的なコメントをつければ明るい話題になります。不安を掻き立てるようなBGMを流し、批判的なコメントをつければ告発になります。

印象操作の為の表現方法は非常に多種多様ですが、ニュースなどを視聴する際は、キャスターやナレーターの言葉はもちろんの事、同時に流される映像や効果音等に対しても注意して視聴するのが望ましいと言えます。また、新聞でも記事の見出しを使った情報・印象操作があります。(同じ出来事の報道でも、A紙ではかなり大きな見出しを立てて報じているにも関わらず、B紙では隅のほうに小さなスペースで報じている場合も少なくない)

時にマスメディアは報道自体を控えてしまう為、そのマスメディアしか利用していない人の場合、気づく事が難しいという面があります。しかし、それでも、複数のメディアを利用する(例えば一局だけでなく他の局のテレビ・ニュースも見る、他の新聞社の新聞も読む、書籍やインターネット上の情報も参照する等)事によりある程度理解する事は可能ですが、その捏造や意図的な隠蔽などを指摘するメディアを無条件で信用してしまうこともまた大規模なマスメディアを疑わないのと同じように危険であることを意識しておくことが必要です。

また、「広告主をはじめ、自分が利用しているマスメディアと何かしらの繋がりがある存在(人物、企業、団体、政党、国家等)をあらかじめ知っておく」といった事も役に立つと思います。

 メディア・リテラシーについて、タイや韓国、中国、シンガポール、カナダ、アメリカ、メキシコ、ブラジル、イギリス、フランス、スロベニア、ハンガリー、南アフリカなどで、学校教育や社会教育の場ですでに実践されたり、教員の研修等を行ったりと、世界各国で取り組みが進められてきています。早急に日本でも導入する必要があることはインターネットを含めさまざまなメディアの影響で起きている問題の増加を見ていけば明らかです。

 ある記事から、わかりやすいものがあったので紹介させていただきます。カナダのバンクーバ市の教育担当者、日本でいう教育委員会が取り組んでいる「メディア・リテラシー」に関する内容をまとめたものです。
@情報は編集されたものであり、ありのままの事実であるとは限らないという認識が必要である。
A情報は何が真実で、どこが誇張されているのかについて読みこなす力が必要である。
B情報を活用する時は真実の部分だけを利用し、またそれを使いこなす表現力が求められている。

 さらに、カナダのオリエンタル州の教育省は、一九九二年に八つのキーコンセプトとして基本概念が用いられています。そのうちの五つを紹介すると、

@メディアはすべて構成されている もっとも重要な概念であり、最初に理解する必要がある。メディアは現実を反映しているのではなく現実を再構成し、再掲示している。メディアの情報は一見、現実そのもののように見えても、実際には多くの意識的あるいは無意識な選択ののちにつくられ、構成されたものである。
Aメディアは「現実」を構成する  メディアは世界で起きているさまざまな出来事のなかで、何がもっとも重要で何がそれほど重要でないかということや、重要性の順位を日々決定し、その解釈に基づいて構成する「現実」を私たちに提示している。それをそのまま受け取れば、私たちが現実を構成していく。
Bオーディアンス(読み手)がメディアを解釈し、意味をつくりだす 同じテクストを読んでも、オーディアンスの性別、年齢、人種的、文化的背景や個人的資質、過去の経験、ニーズ、不安、その日の喜びや悩み、人種や異性に対する態度、家族や文化的環境、道徳観などによって読み方は異なってくる。決してオーディアンスはメディアが送り出すメッセージをそのまま受け取るわけではない。オーディアンスがメディアを解釈し意味をつくりだすのである。
Cメディアは商業的意味を持つことが多い メディアの制作はほとんどの場合、ビジネスとして行われており、利益を生む必要がある。このようなシステムでは、オーディアンスは単なる消費者として位置づけられている。つまりメディアが私たちの日常生活とどう関わっているのかを分析することが必要である。
Dメディアは社会的・政治的意味を持つ メディアは直接的には価値観や態度形成に影響を与えていない場合でも、私たちの生活を質的に変化させたり、時間の使い方を変えたりする。それはメディアが社会的な制度として存在しているからである。メディアは私たちに環境問題、人権問題などに関心をもたせることができ、また国内問題、地球規模の問題に関心をもつように促すこともできる。

インターネットでは個人がマスメディア的な存在になれてしまいます。表現力の違いによって、発信側の意図していることと、受信側のとらえ方に大きな差が生まれる、そんな時代です。しかし、その発信された情報は真実でなければならないという責任すら今はありません。

 また、何よりもメディアを見聞きする視聴者(オーディアンス)の意識や感性が常に問われています。メディアを見て最終的に意味をつくりだすのは受信者です。その受信者が周囲の人、出会った人々に自分が得た情報を発信しています。時に、この発信がもともと自分のもっている偏見や価値観とともに出てしまい、これが人権侵害や差別につながることもあります。義務教育でこれらをしっかりと位置づけるべきだと私は感じています。

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