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インターネットから見える社会矛盾と人権
〜 子どもたちが利用するインターネットから見えてきたもの 〜(第2部)

 脅迫や殺人予告、ネット犯罪などは後を経たない。人権侵害も同様である。
最近私が体験した例では、2006年6月23日の金曜日、私が仕事を早く切り上げ、当然、定刻で帰ろうと車に向かう途中、携帯掲示板を見ていると、某学校別掲示板の中に、「土曜日未明、学校を爆破する。決行」と書き込みされていた。すぐに県と県警に連絡し、書かれていた学校の巡回をお願いした。

 さらに、10月21日には、全国的な掲示板上で「生きるのに疲れた。誰かいっしょに死にませんか?」という書き込みを発見した。この書き込みに対し、「自殺なんてやめなさい」など自殺を止める書き込みがある一方、県内の自殺の名所と言われる場所を書き込み、「ここで自殺したら?」と自殺を示唆するような書き込みもあった。早急に県警に連絡し、「無事でした」と連絡をもらい安心した。書き込んだ人の意図がどのようなものであれ「万が一」の危機管理をもって、常に行動することを心がけている。

 携帯電話のモニターで、2006年4月から2007年3月までで個人的に141件の名誉毀損にあたる書き込みを発見し、すべてに削除を要請してきた。学校名がわかるものに関してはできるだけ学校へ電話をしている。子どもたちは学校や保護者にわからないようにいじめを行っているが、それがそのまま携帯掲示板に「反映」されてくる。私の経験上、モニターで発見したネット上の中傷を学校に連絡し、対象となっている生徒のクラス内の状況を注意深く見てほしいと連絡するなかで、事後に「いじめられていた」とか「友人関係でトラブルを起こしていた」などの報告をもらった。

 削除要請をメールだけではなく、プロバイダーや管理者の会社などの住所が表示されている場合には、文書での削除要請もしている。このときには、職場の封筒で送っている。当然私の名前や団体名も書いて送る。情報を発信している者の責任として、誰が誰に何を伝えたいのかを明確にしなければならないと私は感じている。
また、プロバイダーや電子掲示板を立ち上げた管理者には、削除要請文の中に、現存する書き込みが、社会や当事者にどれだけ深刻な結果をもたらすか、いかに問題であるのかという説明を入れ依頼をしている。それでも削除されない場合もある。

 インターネット上の人権侵害については、時事問題ということで、2006年度で90回、2007年4月から12月まででも97回の講演をしてきた。26歳の未熟すぎる私は、人前で話をすることが得意ではない。いつも「自分がしてもいいのか」と感じている。しかし、講演をする度に、「ここまで知らない人がいるのか」と感じている。「事態はより深刻になっている」と現実が教えてくれていることから、職場では講師派遣事業があるおかげもあって、講演を続けることができる。しかし、他の業務もあり、インターネットは最重要の取り組みにはできない。取り組むべき問題として講演をしてきたが、多くの依頼を断っていることも確かである。
神戸の高校3年生がネット上の悪質な書き込みなどが原因で自殺してしまったことで、某新聞社や某雑誌社から電話取材やメール取材を受け、私の名前が載った瞬間も見事であった。関東、四国、中国地方から講演依頼がかなり飛び込んできた。さすがにすべて受けてしまえば事務局の仕事がおろそかになってしまうこともあり、ボランティアで取り組んでいることでもあるので多くを断っているのも事実である。ただ、私のような県外の若造に依頼がくるほど、おとなは本当に知らないんだと改めて実感する。

 私は、「自分のやってきた取り組みで少なからず救えた子がいるだろう」という自己満足感と、講演や資料提供を通じて、取り組みは広がってきたという勝手な思い込みがボランティアとして続けられる力の一つにもなっている。それでも決して満足しているわけではない。個人的に取り組みが衰退しないようにしているだけである。三重県内の某市教育委員会では、市内の中学校に携帯電話を配布し、教職員が実態を把握し、自分たちの学校や学校を卒業した生徒であれば、自分たちも対応していこうと、全市的に取り組まれてくるようになった。

  某市の人権関係部署の職員も力を入れてくれている。また某地域内の8つの高校でも、同様にモニターを個人の携帯電話で取り組んでくれるなど、講演先を通じて、モニターをしてくれる人材を増やしてきたつもりだ。

 学校裏サイトだけに限らないが、インターネット上のさまざまな問題は全国的な取り組みが求められている。都道府県別掲示板では、学校別掲示板のように中学校や高校などは通常わからない。そんなとき私には削除依頼しかできないのである。つまり、加害者の意識改革と被害者の救済ができない。しかし、多くの人がモニターをしていくことによって、ソフト面での取り組みが可能になるのだ。そうすることによって、子どもたちを巻き込むさまざまな有害情報の実態を把握することもでき、取り組まなかったおとなが取り組まなければという意識に変わる。
 おとなが変わらないと子どもを変えることはまずできない。

 まず私たちにできることは、社会にこのような状況があることを認識させることが必要である。このような問題が起きていることがわかったおとなは、インターネットそのものを知らないために、どうしたらいいのかわからないと困惑している。これが第一段階であると考えている。
 技術的な教育、利便性のみが取り扱われ、危険性や問題点は一切認識されないまま、ただ単に携帯電話を買い与えて放置されてきた。指摘するとしても、料金に対して「あまり使うな」と言うだけだ。これで問題が起こらないはずがない。

人権侵害は休日や時間を問わず起き続けている。有害情報が流布されている掲示板等は、膨大な量が存在しているので、とても少人数では対応できない。時間があるときは、さまざまなホームページや掲示板を次々と検索し、新しいサイト、従来からあるサイトを発見しているが、自分でやっていてもきりのない状況にやる気をそがれることもある。

 こういった時代にあるからこそ、個人ができることからはじめていくことが求められている。学校以外の場で子どもたちが得たマイナス情報が、学校でマイナスに働くことが増えている。 当然、学校だけで起きる問題ではない。差別情報で言えば、学校や家庭で一切教えていない情報も、子どもたちは携帯電話で収集することができ、例えば「障がい」をもつ人に対する歪曲された差別的な情報もネット上で氾濫しており、それを何も知らない子どもたちが見てしまえば、それを是正するための教育がない限り、その情報を得た子どもはその意識を持ち続け、いつかそれが表面化してくる。それが結果として学校現場での差別発言となる。現実の差別発言は、その学校に関係する人しかまず聞くことはないし、差別落書きであれば、落書きを書かれた場所を利用する人や通る人しか見られない。つまり非常に限定された範囲で済むのに対し、ネット上で同じ行為が起きると、極端な話、北海道で書かれた差別落書きを沖縄県民も閲覧できるのと同様である。

 ネット上で氾濫する歪曲された差別情報を是正する教育が人権教育であり、それらが実践されていない学校や地域であると、歪曲された差別情報は子どもたちには、インターネット、特に携帯電話を通してどんどん入っていくのに対し、正しい知識が付与されない、誤った知識や理解を是正できないことで、差別を拡大させてしまう可能性がある。

 県内で2007年に起きた事例の2つを紹介したい。少し私が着色するところがあるが大きくは変わらない。

 1つ目は、県内某市の中学校の男子生徒四名は学校が終わった後に、一人の子の家で遊ぶことになった。その子の家に着き、テレビゲームをしていたが、あきてきたので、リビングに保護者が購入したパソコンがあったため、インターネットに接続し、さまざまな情報を検索しだした。すると、「おもしろ動画」というサイトが表示され、それを見ていったところ、さまざまなキャラクターをおもしろおかしく動画化されたもののなかに、「障がい」者に対する非常に悪質な動画が表示された。
それは某インディーズのバンドグループが、子ども向けテレビ番組で流されていた歌の歌詞を、「障がい」者差別の歌詞に変えて、自分たちでCDを作成し、直接店舗に販売していた。そのCDを購入した差別意識を持たれた人は、その歌をパソコンに取り込み、記号を用いて差別動画を作成し、インターネット上に流布していたのだった。
その中学生たちは、その動画を見聞きして、こう捉えた。「これおもしろいな。学校で歌ったら流行る」となって、一生懸命に歌を覚えて翌日、教育現場で楽しそうに歌ったのだった。それを学校教員が聞きつけ、差別事象となった。
子どもは悪くない。すべてはおとなが正しく知っているはずの知識や認識を、こどもに教える必要はないとおとなが勝手に判断したことで、この中学生たちは差別の歌を楽しく歌えるようになってしまったのだ。

 2つ目は、県内の某高校で起きた事例。高校での人権教育の取り組みの一環として、一年生になると「調べ学習」ということで、それぞれの生徒に各人権分野について調べさせ、それを発表させるという取り組みがある。今まで通りにそれを実践されてきたのだが、ある生徒は一つの人権問題について課題が与えられた。
その生徒は小・中学校と一切、人権教育を受けてきておらず、調べる図書も知らないので、インターネットで調べはじめた。大抵は一番上に表示された最もアクセス数の高いものは、多くの人が見ているため、内容は正確であると捉えられがちであり、生徒も見事にその術中にはめられた。アクセスした内容には、事実を歪曲した非常に悪質な人権問題に関する内容が表示された。
すると、この生徒は正しい知識も認識もおとなの勝手な都合で教えられていなかったため、これをそのままとられてしまった。これを教育現場に持ち込んだことで、この後、複雑な事情があったのだが、差別事象として取り上げられるようになった。

双方とも、小学校時の学校教育や家庭教育では、おとなの身勝手な判断によって、子どもを差別行為者に容易に育て上げられる可能性があることを示したと私は感じている。たまたま表面化してきた事象であって、子どもたちのなかでは、ネット上で収集した差別情報を鵜呑みにしているが、それを表面化していないということはかなり多いと私は感じている。
 それほど人権問題だけではないが、正しい情報よりも、事実を歪曲し、差別的な内容の情報のほうがネット上では多いことで、小・中学校での積み重ねがない子どもにとっては、情報の正誤を判断することは不可能に近い。

これは人権問題以外にもあてはまることであり、わいせつ情報や残虐動画などであれば性的思考が極端に歪まされ、命を軽視する子どもが育ってしまう。そして電子空間と現実空間を何度も行き来することで、何が正しいのか区別がつかないようになり、その典型的な例が「殺人」にまで至ってしまうケースでもある。問題は非常に複雑であり、このように一言で表すことはできないが、新たな「刷り込み」の手段が生活の中に入ってきている。部落問題に対して「寝た子を起こすな」という意識があるが、子どもたちを巻き込むさまざまな問題に対して、おとなが何の取り組みをしてこなかったことが、ここまで問題を悪化させている。つまり「知らないから取り組めない」ことが原因の1つでもある。正しく知らせることが問題を未然に防ぐことにつながるのである。どんな問題であっても知っていれば反発を感じられたり、時には問題解決の行動へもつながる。

プラスとマイナスの表裏一体の機能が備わっているのがインターネットであり、子どもたちに私たちの学生時代にはなかった新しい可能性を含むものと、健全育成を阻害するものの両方が充満している世界がインターネットである。
インターネットの便利さ、有用性ははかりしれない。しかし、全く知らない人と出会う、個人がメディアとなって情報を発信・受信するといった表と裏が交錯する世界をおとなたちは、何の教育もなしに、子どもたちに提供している。こういった状況下で問題が起きないはずがない。

携帯電話はいつでもどこでも利用でき、またインターネットカフェもあちらこちらにできている。このような状況で、子どもたちはインターネットを利用して、何を見ているのか、何を発信しているのか、それを通じてどのような影響を受けているのかなどに関心を持たなければ、おとなが知らない間に子どもはインターネット上のマイナス情報によって、人間形成がなされていく。インターネット上のトラブルによって、殺人事件まで発生するようになった今日、「子どもたちを放置しておくことは、命の危険を招くことになりかねない」、これほどの危機感をもってもよいと私は思う。「ネット依存」「ネット人格」といった言葉も出てきている。日常の生活では温厚な子どもが、インターネット上で発言したり書き込んだりする際には、普段では考えられないような乱暴な言葉遣いを見せることが多々ある。
また「ネット依存」は、携帯電話依存とも連動しており、もっていなければ不安で仕方がないといった子どもたちはかなり多い。子どもたちは「携帯電話は命の次に大切」だというのだ。携帯電話やインターネットがすでにある子どもたちの環境は人間関係を希薄化させている。しかし、これは私が小学生時代であっても同じ現象が起きており、インターネットが入ってきたことによって関係性の希薄化を加速させたに過ぎない。

 こんな状況下の子どもは友人への見方が歪まされてくることがある。私は小学校当時から、隣の友人を「テストの点数」で自分よりも立場が上なのか下なのかを判断するようになった。一〇〇点をとればみんなに見えるようにかかげ、九〇点や八〇点であればテストが返ってくるなり、まず隠し、どこを間違えたのかを確かめた後、ここまではいいのだが私はまわりを見渡し、自分よりも点数が下の子を探していた。三人くらい見つけたら、隠していた体を上げて安心していたのだ。100メートル競走も同じ、幅跳びも同じ、すべて「数字」で友人との優劣を判断していた。こんな見方をしているので、自分よりも教科学習のできる子は「賢い」「うらやましい」となり、自分よりも点数が低く、走りが遅い子は「あの子がいるから自分は安心」だと当時は思っていた。これは今の子どもたちにも言える。まわりと比べることでしか、自分の立ち位置を見いだせないのだ。本来であれば、以前の自分と向かい合うべきであり、「以前は80点だったが、今回は85点だった。前より5点あがったから、もっと上がるように努力しよう」とならなければならない。
そんな自分と向き合えず、クラス内での優劣をつけはじめると関係性は「数字」でしかないため、長期間ともに同じ空間で過ごしていてもお互いのことをほとんどわかりあえないため、簡単に関係性が切れてしまう仲がきずかれていく。さらに、子どもたちの多くは、小学校段階から自分らしさをまず出せていないことが多いのだが、クラス内にいる友人は「この姿がこの子のすべてだ」ととらえてしまい、本来は表面的で時には自分を偽り生活している子に対して「決めつけ」がはじまっていく。そしてこの決めつけが固定されていけば、本来の自分を学校内では出せなくなる。そして、偽り続けて生活することで、ストレスがたまり、「ねたみ、憎しみ」といった感情がこみ上げ、時に爆発する。それがネットであったりするなど、様相はさまざまであるが、これもネット上の誹謗・中傷行為が起きる可能性の1つとしてある。

 勉強できる子は賢いという概念は崩す必要があると考えている。私が見てきた限り、教科学習のできる人は、人としての賢さとイコールになってはいけないと感じている。本当に教科学習のできるいわゆる「大学を出た」人々が、人として賢いのであれば、教員や公務員がセクハラや飲酒運転、公金乱用などといった事件はまず起こさない。すべてではないが、学校別掲示板に表示されている、いわゆる「進学校」とよばれる学校の一部では、私もなぜなのかという明確な答えをもってはいないが、実態は「特定の女生徒の実名を掲示板上に書き込み、その子の胸囲や下着の色などについて非常にわいせつな書き込みをしている」ことが2006年に非常に目立った。教科学習を徹底させ続けることに問題はないが、人として大切なことを教えられずに育ってしまうことであり、それは何よりも子どもが「愛されている、大切にされている」という意識も欠如させてしまうことにもつながる。何度も言うが、すべてとは言えない。しかし、社会で起きた事件などを通して、私が感じたことである。
賢い人間とは、こういった行為に自らストップをかけられる人であり、自分の言動・態度・意識を第三者として見つめられる人が私の中では「賢い人」の定義である。
「国語や数学ができ、先生と言われる存在になられた人はたくさんいる。しかし、その勉強ができる人の一部には、自分たちが見ている生徒に対して、セクハラを起こすというとんでもないことが起きている。セクハラ事件を起こした先生は、勉強ができる人である。市民が納めてきた税金を個人の遊びで使っていた政治家がいる。彼もまた勉強はできる。市民が自分たちの老後のために一生懸命積み立ててきた年金を社会保険庁は、ずさんな管理で市民の老後に対する思いを不安そのままに塗り替えた。この人たちもまた勉強ができる人たちだ。勉強ができることと、人間としての賢さは、勉強ができる、できないでは絶対に判断できない。けれども、小学校くらいから、常にテストの点数などの数字でおとなに評価され続けてきた君たちのなかに、その数字での判断が人間関係にまで影響していないか考えてほしい」と話をする。
すると共感する生徒は経験上かなり多い。私と同じ過ちを今の時代に生きる子どもたちも繰り返しかけている。私はテストなどの点数で判断することを批判するつもりはない。しかし、多くの場合、保護者であれば、結果的にテストで何点をとったのかに着目しすぎ、子どもがそのテストに向かうまでの努力課程を評価しないことが、そういったことにつながる。だから子どもたちも集団の中で数字での評価で人間としての価値も決めてしまい、そんな関係はいじめなどの問題を容易に引き起こす希薄なものとなる。これがすべての要因ではないが、子どもたちの中にそういった数字の評価が人としての評価につながっていることが多い。

前の自分のテストの点数やその努力課程と比較し、勝負できるようになることが私にとっての理想である。他人と比較するのではなく、自分と向き合うことが大切であるということも私なりに伝えたいのだ。

「ネット依存」からは少し話がそれたが、以上のようなことも踏まえていくことも大切である。携帯電話依存は私の身近にもいる。

 中学三年の女の子のケース。少し私が着色するが、大きくは変わらない。中学校で三年間がんばってきた卓球が最後になる大会が開催された。その子は朝、電車に乗って最後の試合が開催される会場へ向かった。個人的にもがんばってこいとなって、帰ってきたら外食に連れていこうと思っていた。その子が会場へ着いて、おそらく「最後の試合やから、少し早めに練習しよう」となって、私の親類の子が鞄を開けたところ、なんと「ラケット」を忘れていたのだ。この子は「どうしよう〜」となって携帯電話から母親に電話をかけて、半泣きになりながら「お母さん、ラケット忘れた。持ってきて」と言うのだ。母親はあわてて会場まで持っていったのだが、なんと彼女の右手には携帯電話がしっかりと握られていたのだ。中学校最後の試合、携帯電話という卓球の試合には何の関係がないものを持っていきながら、ラケットを忘れたという偉業を成し遂げた。その日、夕食を食べにいったとき、「お前もうこれでしろ」と言って、私は自分の携帯電話で卓球の素振りのマネをした。母親は大爆笑していたが、その子は平然としていた。

 当初、私の親類だけかと思っていたが、そうでもなかった。野球の試合に携帯電話は持っていったが、グローブを忘れた、吹奏楽部の演奏で使う楽器を忘れたが携帯電話は持っていったなどである。私たちには考えられないほど、携帯電話は子どもたちにとって、まさに肌身離さず持たなくてはならないものとなっているのだ。これを取り上げろといってもまず不可能である。

 こういった子どもたちの姿があることをいち早く確認し、電子空間から現実空間へ引き戻す作業が求められている。人と人とのつながりがいかに大切であるかを知っている私たちは、それを伝えていくことも必要である。
子どもたちに「おとなは知っているんだ」という意識づけができる。これからさまざまな情報を収集していく子どもたちにとって、必要な意識付けであると思う。

 その反面、「ネット世界」に居場所を確立している子どももいる。「現実世界」で友人関係があまりうまくいかなかったり、友人がなかなかできなかったりする子どもにとっては「ネット上のともだち」との会話(チャットや掲示板等)によって自分の居場所を見つけ安心感をもっている現状がある。それを裏付けるものとして、高校生から「この掲示板は学校でものすごくおとなしい子が利用している」と教えてくれた例もある。そんな中で今いろいろな人が「規制」に向けての取り組んでくれている。そうなればこの子どもたちの心の居場所はどこに求めていけばいいのか、誰が安心感を持たせていくのか。その見通しがなければ、不安や悩みを抱え続ける子どもたちが、増え続けていくことにもなる。

 神戸の高校3年生が自殺したことが報道されたことで、ようやくおとなに認識されるようになってきた学校裏サイトであるが、本来は裏サイトを呼ばれるような目的で作成されたわけではないものが多い。子どもがネット上で学校内の情報を共有しようと掲示板を作成し、時にはテスト範囲や授業のことを聞く生徒もいるが、その反面、個人の誹謗・中傷行為を書き込んでしまうケースもある。
 反発を買うかもしれないが、私はまだまだ閉鎖すべきではないと基本邸には感じている。

 まず、学校別掲示板等で私は個人的にモニターをし、学校に連絡をして在校生がいじめにあっているという状況は、私が連絡をして対象となっている生徒のクラス内の状況や友人とのトラブルはなかったかなどを従来以上に注意深く見てもらい、いじめられていたとか、友人と人間関係のトラブルを起こして悩んでいたなどが後からわかってくることが6割近くであったにも関わらず、今、学校裏サイトなどを閉鎖したら、いったいおとなはどこで子どもたちの人間関係や子どもが抱える不安や悩みを的確に認識していくつもりなのか。
しかし、そんな子どもたちの変化をおとなが的確に認識できるまでの意識や「感性」が備わっていないのに、また子どもたちの関係性の崩れを見ることができなくなるのではないかと感じている。確かに今回、高校生が自殺をしてしまったということで報道されるようになった。私が怖いのは「見えなかった問題がインターネットを通じて見えてきたのに、また見られなくなることで救える子どもも救えなくなるのでは」という思いにある。事例をあげたが、妊娠中絶の相談などは、ネット上でしかほとんどの場合出てこない。薬物の売買ルートや特定の女性に対するレイプ計画、深夜徘徊の様子も同様である。
ネットの特質で、冗談で書いたことがいじめにまで発展してしまう例もある。冗談で特定個人の中傷を書いたところ、その書き込みを見た掲示板の利用者たちは、その冗談にさらに拍車をかけて中傷の書き込みがどんどんなされていく。こういった事例があるのも確かである。しかし極めて少ない。書いている当人が冗談だと思っても、書かれたほうにとっては深刻になる場合がある。愚痴程度に書いたものでも同様である。こういったことすら防げないのは、おとなの責任である。

 県内でも子どもたちが妊娠をしてしまったことで学校をやめている状況をおとなは把握できていない。子どもたちが利用するネットの中で卑劣な会話がなされている状況を的確に把握し、その実態に応じ、性教育も強化すべきだと感じている。性教育は命の教育でもある。私が接してきり、見てきた子どもの最も印象にあることは「自尊感情が極めて低い」ということである。自分の存在そのものがいかに尊いものかをしっかりと意識させることによって、はじめて他人の存在も尊いものとして意識できる。おとなが子どもに伝えるべきことを伝えられていないことも、こういった問題を引き起こす要因であるとも感じている。

 おとながつくったインターネットで、何のルールもなしに与えてきたおとながいて、子どもたちがそれを利用して問題を起こしたから、今度はまたおとなが取り上げようとしている。ハサミを使った殺人事件や未遂があれば、子どもからハサミを取り上げようという表面的なとらえ方での取り組みと同様で、根本的に「なぜそういった行為に至ったのか」が全く考えられていない。子どもに利用させるまでのおとなの認識不足がこれらの問題を引き起こしている。

 子どもは昔から何も変わっていない。その子どもを巻き込む環境や物の豊かさが時代の流れのように極端に早く豊富になってきている。それに応じて子どもたちも物の豊かさをどんどん追求するようになっているが、おとなはそれについていけず、物の豊かさがどんどん増す中で、人間関係は反比例し、どんどん希薄化している。こんな時代をつくりだしているのも、おとなである。

今の子どもたちには、すでに携帯電話やインターネットがある世界の中で、コミュニケーションの手段そのものが理解されていないことも多い。友人とは携帯電話やネットを通じて関係をつくるものと考えている子どもさえ存在する。現実世界で、うまく人間関係がつくれなくても、ネット上では簡単に仲間を見つけることができる。その関係が嫌になってきた場合、いつでもその仲間から去ることもできる。この電子空間での関係性が現実世界にも影響を与えている。
相手が本気か冗談か、信用できる相手かどうか。現実では、声の質、調子、というのは大きなヒントになる。しかし、ネットでの感情については主に受け手が勝手に意味をつくりだすことが多い。相手の主張と受け手との大きなギャップが生まれていることは少なくない。こういったことについても、今の時代だからこそ、関係性を豊かにすることが大切ではないかと考えている。

 教育現場や地域でも問題が起きていないところはない。ないとするなら、問題を問題として認識できる意識や感性がないということになる。
 例えば、学校教育現場で問題行動を起こす子どもに対して、現出している部分だけで捉えれば、問題を捉えてはいるものの、根本にある問題を起こさす背景を捉えることができないため、取り組みとして「子どもに怒ること」と「保護者への報告」で終わってしまう。
こうした表面的な捉え方は、暑い季節にさまざまな場で困窮している、除草作業が良い例えである。
 地面の上から出ている草を草刈機で刈ったり、手でちぎっても、根を取り除かなければ、草はすぐに生えてくるし、伸びてしまう。
 除草剤をまいても、生えてくるところからは生えてくるし場合によっては不必要なところにも悪影響を及ぼす。最も効果的なのは、多くの人々と協働で「草刈」ではなく、「草(の根)引き」をすることにある。地道な努力であるが、適切に細かい草から大きな草まで根っこから取り除くことができる。そして手だけでは時間がかかったり作業が進みにくいので、水をかけて地面を柔らかくし引きやすくしたり、道具を使って土を掘り、根っこから掘り起こすという工夫がなされる。つまり、根気よく子どもに接することや、おとな同士の「協働作業」というつながりや知恵を出し合う場が必要であると感じている。

 携帯電話やインターネットによって、コミュニケーションの手法すらわからなくなっている子どもは本当に多い。それを現実世界でおとなが見本を見せなければならない。

今では携帯電話がありメールもできるため、「何をしているの」と常に相手の行動を問うことができる。すぐにメールの返事が返ってこないと「家にいるはずなのに、なぜ返事がなかったり、電話しても出ないのか」と考えるようになり、インターネットに「使われる」人の多くはすぐにイライラしはじめる。そしてメールの返事がすぐに返ってこない、電話に出ないという当たり前にあり得ることなのに、それによって喧嘩が起きるケースは少なくない。心理的な余裕がインターネットに「使われている」ことによってなくなり、例えばネット上の書き込みを見ていても、言葉狩りの横行や、感情をそのまま匿名でぶつけあっていることはインターネットではよく見受けられる。瞬間的に相手と連絡がとれてしまうことや、ネットに使われていると自分を見失い、すぐにイラだったり、攻撃的になってしまう。つまり手紙などであれば、文章を書いている間に時間の余裕ができてくるため、感情がおさまりやすいが、インターネットの瞬時性はそれを許さない。

中学校別掲示板では、某中学校二校の生徒が掲示板上で言葉狩りをはじめ、口論となり、最終的に書かれたのが、「これから数名でお前の学校に乗り込むから待っとけ」であった。その流れをモニターしていたため、学校に連絡し、未然に問題を防げた。これが現実世界に反映しているのが問題でもある。

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