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人権とは何か
「人権とは何か」基礎基本
人権には「世界共通の基準」がある
 1948年、国際連合(以下「国連」という)において、当時の加盟国が賛成し採択された「世界人権宣言」の第一条には、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と謳われています。この宣言には、当然、日本も賛同しています。
  宣言の前文では、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である」とされています。
 そして「加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約した」とも謳われています。それぞれの国や地域の事情によって異なる人権があるのではなく、「世界共通の基準」として人権があり、「人権とは何か」を正しく認識する上で、世界人権宣言は、その手引きとなっています。世界人権宣言が採択されて以降、国際人権規約をはじめ、女性差別撤廃条約、人種差別撤廃条約、子どもの権利条約、障害者権利条約なども採択されてきました。
 よって、基本的人権の原則は、
1)世界中のすべての人に人権があります。
2)生まれた時から、すべての人は人権を持っています。
3)他の人の人権を侵害し、行使できないようにしてはいけません。
4)人権は無条件に与えられます。
5)すべての人権・権利が等しく大切です。
ということです。本来、こうしたすべての人が有する権利が、戦争や差別などによって侵害されることが起きています。
人権や権利は、憲法や条約等で定められている
 人権とは、抽象的で漠然とした個人の「考え方や思い」ではなく、宣言や人権関連条約、規約、法律で規定されているものです。具体的な個別の権利を挙げると、
婚姻の自由、表現の自由、居住移転の自由、集会結社の自由、移動の自由、信教の自由、学問の自由、教育を受ける権利、働く権利、労働基本権、勤労の権利、社会保障を受ける権利、最低限の生活を送る権利、生存権、平等権、社会権、幸福追求権、請願権、裁判を受ける権利、財産権 等々
であり、人権は、こうした権利の集合体をさします。人権を保護し、人権が尊重されるための法律をつくることや、制度を設計することは国の義務であることが原則となっています。 こうした基本原則が、個別の条約にも規定されています。「子どもの権利条約」では、「生きる権利(差別の禁止)」「育つ権利(子どもの最善の利益)」「守られる権利(生命、生存、発達に関する権利)」「参加する権利(子どもの意味ある参加)」の4つの原則で構成されています。その上で、成人に規定されている権利の多くが子どもにもあるとされています。
 権利を侵害する社会問題については、部落差別でも、具体的な権利の視点で整理された基準があります。1965年の「同和対策審議会答申(以下「答申」という」です。答申では、「近代社会における部落差別とは、ひとくちにいえば、市民的権利、自由の侵害にほかならない。市民的権利、自由とは、職業選択の自由、教育の機会均等を保障される権利、居住および移転の自由、結婚の自由などであり、これらの権利と自由が同和地区住民にたいしては完全に保障されていないことが差別なのである。これらの市民的権利と自由のうち、職業選択の自由、すなわち就職の機会均等が完全に保障されていないことが特に重大である。」と定義されています。ちなみに、同和地区や被差別部落の出身ではない人たちは「出身者や当事者ではない」ということを理由に、上記の権利が侵害されるような差別は、まずおき得ず、それは努力や実績とは無関係なものです。
「思いやりや優しさ」と「人権」は別個の問題
 ここまで紹介してきたように「道徳や倫理」、「思いやりや優しさ」で、温かく、誰もが住みやすい社会をつくろうとしても、人権が守られる、保障されるとは限らないということがお分かりいただけると思います。しかし、日本では、人権が「心の問題」に置き換えられてしまっており、非常に広範囲に深く浸透してしまっています。今でも法務省・局では、人権啓発を行う際などに「思いやり」を用いているため、国を挙げて誤解や曲解が広げられています。
  思いやりを持つこと自体は大切ですが、それが強調されてしまうと、マジョリティはマイノリティが直面させられる困難に対し、「やってあげる」感を持つようになり、マイノリティが権利を求めたり、不当性に声を挙げたりすると「生意気だ」といった反応を示すようになります。「障害」者が移動の自由を行使できない場面に遭遇した際、マジョリティが補助することがあります。それに異論は全くありません。しかし、マイノリティは補助してくれた相手に「すいません」「ありがとうございます」など感謝の意を強調しないといけなくなります。そうしないとマジョリティが途端に気分を害し、次に補助してくれなくなるからです。マジョリティの顔色や機嫌を伺い続けるという「非対等な関係」がつくられ、それがいつまでも続いてしまいます。一方、マジョリティは、上下階に移動する手段として建物などに階段が設置されていることを当然のことと捉えているので、誰かに感謝を抱いたり述べたりすることはありません。上下階に移動できる「移動の自由」が保障されている、行使できる「結果」となることが重要であり、「障害」者も同様に、上下階に移動できるようにエレベーターなどが設置されることで、マジョリティと同じく「移動の自由」が保障され、行使することができると、補助してくれた人に毎回、感謝の意を示すようなことをする必要がなくなるということです。
今のままでは「人権」を正確に認識できない
 日本では、「人権とは何か」「権利とは何か」について、正確に認識できる学習機会が、学校教育や社会教育で不十分であり、そもそも必須とはなっておらず、公教育で教えるしくみが整備されていません。権利について教えることが大切だという認識を持つ教職員が授業で扱うという状況にあり、個の力量、学校の裁量にゆだねられ続けています。「子どもの権利条約」を批准したのに学校で子どもたちや保護者に教えられていない、「障害者権利条約」を批准したのに「障害」児者やその保護者、いわゆる健常者にも教えられていない、こうした状況が今も続いています。
  いかに、人権や権利が正しく認識されていないかは、「人権ポスター」「人権作文」などに現れています。学校で、児童生徒が描く人権ポスターなどの例で言えば、「笑顔、ハート、花、太陽、優しさ、思いやり、手をつなぐ、仲良し等」になります。一方、欧米における人権ポスターなどでは「こぶしをかかげる、手を挙げる、声をあげる・出す、手錠や鎖から解き放たれる、連帯等」などが多く採用されています。しかし日本では、教職員が正確に認識できていないがために、児童生徒にはもちろんのこと、保護者や住民にも正しく伝えられていないということが、長期にわたって続いており、こうした現状となっているのは、教育委員会も同様の状態にあるということです。
 人権とは「争議性」を伴うものです。人権について規定している世界人権宣言や国際人権規約、各種人権関連諸条約、日本国憲法や権利を謳った法令の内容を認識しなければ、「人権とは何か」を正確に捉えることはできないということです。
 人権を正確に認識する上で、自分の権利や自由を主張したり、行使したりするには、他の人の権利や自由を尊重し、守ることが原則です。人権は、無責任な自己主張や、他の人の権利や自由を否定する目的で行使してはいけません。

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