〜 インターネットから見える社会矛盾と人権 〜 (第21部)
先日、動画サイトに投稿された「いじめ動画」と、三重県内で発覚した「高齢者虐待動画」の双方を保存したファイルを知人が送ってくれた。
その動画では、教室で卒業記念と称し、一人の男子生徒を数名の男子生徒が手で殴る、足で顔を蹴るなど執拗な暴力を繰り返し、他の生徒はその様子を嘲笑しながら眺めている映像が保存されていた。暴力をふるう者、その様子を撮影する者、その様子を嘲笑する者、傍観する者。中学校3年生としての集大成が、一人の男子生徒に対する暴力・嘲笑・傍観であった。それが「卒業記念」として行われたものであったということには、驚きを隠せなかった。
学校、教員、地域や保護者など、子どもたちに関わってこられた人々のショックは計り知れないものであろうし、被害者生徒や被害者家族は、本当に深く傷つかれたことだろう。
そのような状況のなかも、某所の学校長が子どもたちの卒業とともに退職された学校では、3月の卒業式に次のようなことがあった。その学校の通信(学校長が生徒・保護者のみならず、地域にも学校でのことを知ってもらおうと、校長自ら作成し、印刷し、配布していた年12回の通信4年間、合計47回出された最後の号)に掲載されていた内容を引用させていただく。下記は、この中学校の卒業式に取材をしにきたテレビ局の方の感想の一部である。
(前略)今年、卒業式の取材にお邪魔したのは、○○市の○○中学校でした。○○のふもとにある学校です。○○中学校でも、やはり「蛍の光」や「仰げば尊し」はありませんでした。歌われたのは「旅立ちの日に」と「桜ノ雨」という曲でした。「桜ノ雨」はインターネットから全国に広がった合唱曲だそうです。なかなかいい曲で、145人の卒業生たちが、涙をこらえながら歌う姿は卒業式らしいものでした。
ところで、式の終了間際、こんな出来事がありました。司会の先生の「卒業証書授与式を終わります」の声に重ねて男子生徒がさけんだんです「ちょっとまってください」と。
体育館の中央に進み出た生徒2人の手には、花束と卒業証書。「今年で定年を迎える校長先生に、僕たちの気持ちを贈ります」
そう、この卒業証書は校長先生へのものだったのです。実は、○○中学校の3年生には、校区の変更に伴って隣接する複数の中学から転校した生徒が多く、この1年、仲間意識をもってもらうために尽力されたのが校長先生だったのだそうです。卒業生全員が「ありがとうございました」と声を揃え、泣きじゃくりながら花束を手渡す姿、校長先生が生徒の頭を撫で抱きしめる姿には、思わずもらい泣きしてしまいそうになりました。
卒業式の歌から消えた「仰げば尊し」ですが、歌詞の中の「我が師の恩」は、今でもちゃんと存在しているのだと、ちょっと温かい気持ちになりました。(後略)
お読みいただいたらわかる通り、中学校3年生の生徒が教職員といっしょになってつくりあげた「学校長の卒業式」というサプライズであった。
ともに同じ学舎で3年間過ごしてきた同級生に暴力をふるい、嘲笑し、傍観することが「卒業記念」という集大成であった学校。
仲間づくりに尽力され、生徒に心から寄り添い、その気持ちが生徒に伝わった証として、卒業式には校長への花束と卒業証書をつくりあげ、涙ながらに手渡し、心からの感謝を示したことが集大成であった学校。
この「違い」は「何なのか、なぜこうなってきたのか、なぜこうなってしまうのか」を私たちおとながしっかりと説明できるようにならなければいけない。それが説明できなければ、問題は連鎖し、再び「同じ」ことが起きるであろう。
本来あるべき学校の姿、子どもに関わるすべての大人が、子どもたちの心底からの「ありがとう」を言われる、思われる、感じる社会の実現をめざすべきだと改めて感じた。私は、すべての学校で、これが実現されたなら、ネット事情を含めた子どもたちを取りまく問題は大きく改善へのベクトルを向け、それが社会に出て成人となり、保護者になっても、一生忘れられない体験・経験となって次世代に引き継がれていくだろう。どのような人に出会い、どのような体験・経験をしてきたのかという「生まれ持って選べない出会い」は、一人ひとりの「進路」や「将来」を大きく左右する。