〜 インターネットから見える社会矛盾と人権 〜(第11部)
2008年になって、外部からいただく相談のなかに「なりすましメール」というものが出てきました。相談者の大半が教育関係者です。
特定のサイトを利用することによって、自分が把握している第三者のメールアドレスで他者にメールが送れるというものです。これによって人間関係が崩れてしまうという問題が生じています。現在のところは携帯電話同士でしか利用できないようです。
本来、仲のよかった友人であっても、友人のメールアドレスから悪質な内容が送られたり、ときには、他者に送ったように見せかけた内容を間違って本人に送ってしまったと思わせるかたちで送信されてきたときに、そのような問題が生じてしまいます。本当にもぐらたたき状態です。
事例を一つ紹介します。生徒間のトラブル(けんか)に関わる内容です。
ある日、AさんにBさんのアドレスからメールが届きました。「うざい・・・」といったAさんを中傷するような内容だったので、AさんはBさんに確認しました。
Bさんは「自分は送っていない」とAさんに答えました。送信履歴は残っていなかったそうです。Bさんやその友達は「Bさんと敵対関係にあるCさんが『Bさんになりすまして』Aさんに送った。」と言っています。
Bさんたちには、「携帯電話から『なりすましメール』を送る方法やブロックする方法を調べる。分かったら、ブロックする方法をみんなに伝える。」と話をしておきました。
ただ、この生徒たちは、Cさんへの不満がいっぱいの状態にあります。ブロック方法を知るよりは、Cさんを攻撃したい気持ちが強いのようです。被害者への支援と、喧嘩の片棒担ぎの境目が微妙です。
ここでは、もともと学校内での人間関係のくずれが出発点となっています。すでに関係そのものが切れた状態にありましたが、互いに憎み合うという点についてはつながっていると言え、その状態で生じたケースです。
不謹慎かもしれませんが、まず「Aさんの送信履歴に残っていなかった」点については携帯電話上で履歴を一瞬で削除することができます。
また、確信的な情報がない状態のなかで、普段の人間関係からAさんに送られたメールはCさんが送ったものと断定してしまっています。結果的にCさんから送られたものであっても、現段階でなにもわかっていない状態のなかで断定することは少し待たなくてはいけません。現実世界での気にいらない子の靴のなかに画鋲を入れるといった行為とは違い、インターネットを通じた問題は物理的に立証できます。Aさんに送られてきたBさんからのメールについて、Bさんの通信記録を確認しAさんに見せることで立証したと言えるでしょう。これはCさんに対しても言えることです。
個人的にあまりこういったことをお伝えするのは好きではありませんが、こういった問題に対して証拠を立証することは大切かもしれません。
現在では、このAさんとBさんのグループと敵対しているCさんのグループとで対面した話し合いがもたれているようです。そこで思いをぶつけあうことを進めてくれています。感情をそのままぶつけあうことで、誤解や曲解である部分が見えてくることもあるでしょう。互いに話し合いさえもたない時点では、何か事が起きれば、すぐに敵対している相手が悪いという妄想をもって憎しみの感情しか生まれません。そうであるなら、対面し感情をぶつけあうことできっぱりと関係が切れてしまい、互いになにもしないということを約束させるほうが双方によってはよいかもしれません。きれい事を言えば、関係を修復しつながりあってもらいたいものですが、そうはいかないこともあるでしょう。
傷つけ合うことは互いにとって「何の意味」もありません。その作業そのものが無駄だと言えます。ここまで複雑化している以上、互いに一切干渉しないことも解決の一つなのかもしれません。悲しいことではありますが。
技術的に防ぐ方法として、携帯電話の設定一つで「なりすましメール」であるかないかは容易に判断できます。このケースはその設定をしていませんでした。おとなも子どもも当然ながら、このような問題が生じてくるとは思ってもおらず、また「なりすましメール」そのものが存在していることを知りませんでした。そうなると当然、その対策も立てられません。
子どもたちの情報収集能力は極めて高いものがあり、すぐにAさんにBさんのアドレスから送られてきたメールが「なりすましメール」であるということは認識できたようです。この情報を得た手段にはインターネットが大きな役割を果たしています。
根源にあるものをしっかりと正し、「その作業そのものが無意味である気づき」を与えないと次から次へと問題が生じてしまい、子どもたちは傷つき続け、憎しみ合い、加害者もそのサイクルから抜け出せない状態になってしまいます。
就学前である保育園や幼稚園の段階において、人権意識の基礎となる取り組みが子どもとおとなの双方に必要だといえます。決して問題が生じている小中高の関係者だけが取り組むべき問題ではありません。