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インターネットから見える社会矛盾と人権
〜 子どもたちが利用するインターネットから見えてきたもの 〜(第4部)

 ネット上の掲示板などを見ていると、「匿名」の人々が掲示板上に表示された書き込みに対して批判をし、批判された書き込みをした人は、それに対して批判をし、「しね」などをはじめ、非常に乱暴な言葉の横行がはじまっていくことをよく見る。

 私は、ネット上で相手をやっつけるために、書き込み内容の言葉尻を捉えて批判し、乱暴な言葉を書き込む人は恐らく現実世界ではそんな姿を見せていない人ではないかと考察している。

 現実世界では自己表現をうまくできなかったり、日常生活でのストレスを発散するためにインターネットを利用される人もいるだろう。これらは、すべて「匿名」か「ハンドルネーム」であり、仮に実名を名前枠に記入したとしても、それを心底信じることをネットではできない。「偽名だろう」と考察されることのほうがむしろ自然かもしれない。だから、私は取り組みをはじめてからの3年と半年間で、差別的な内容に対する反論をしたことは2度しかない。
 私という存在と対峙していない状況で、私がどれだけ願いや思いを込めて書き込みをしたところで、何も感じてもらえず、私のなかでは匿名でそういった反論をすることを「卑怯」と決めている。

 つまり、「相手が見えない、声もわからない、性別もわからない、年齢さえしらない」ということで、その「匿名」によって自分は守られていると感じ、ネット上で使用している乱暴な言葉は、現実世界で使用すると相手に殴られる可能性があることを十分認識している人が大半であると私は感じている。

次に、インターネット上でのさまざまな書き込みには、理論的な内容もよく書かれる。現実で起きた犯罪や不祥事、ニュースなどでも理論的な内容を掲示板で書き込んでいる。
すると相手の理論的な書き込みを隅から隅までチェックし、反論している光景をよく見ることがある。単なる反論は自由なのだが、その内容は中傷的なところに問題がある。
反論された側は、その理論的な反論内容に反論していく。文字だけのやりとりは感情や情緒より、理論が協調され、匿名に使われると、このようなことが起きる。
多くの場合、現実では納得していなくても相づちを打ったりするが、インターネットでは対峙していないことによって簡単に相手を中傷してしまう。

心理的な余裕がインターネットに「使われている」ことによってなくなり、例えば、ネット上の書き込みを見ていても、言葉狩りの横行や、感情をそのまま「匿名」でぶつけあっているやりとりをよく見る。瞬間的に相手と連絡がとれてしまうことや、ネットに使われていると自分を見失い、すぐに苛立ったり、攻撃的になってしまう。
手紙などであれば、文章を書いている間に時間の余裕ができるため、感情がおさまりやすいが、インターネットの瞬時性はそれを許さない。

某掲示板では、某中学校二校の生徒が掲示板上で言葉狩りをはじめ、口論となり、最終的に書かれたのが、「これから数名でお前の学校に乗り込むから待っとけ」であった。その流れをモニターしていたため、2校に電話し、未然に問題を防げた。ネット上でのやり取りが現実世界に反映してくるのが問題である。

 こういった現状から、私なりの考察として「自分に負けない子どもを育む」ことも大切だと感じている。これは「自分を簡単に見失わない」ことであり、現実世界でできないことを電子空間でできてしまうといった状況から、インターネットの特性でもある「匿名」という制度に流されないということ、現実世界では自分の信念を周囲に流されて簡単に押し流されないこと(これは、周囲から物事を学ぶこととは異なる)、これらを取り組むことも解決のための一つの糸口となるのではないだろか。

 私のなかでの極論は、中・高生にインターネット上の中傷について講演する際、必ず最後に話をするのは、「自分の人生は一度きり」だということである。誰に対しても言えることであるが、人間は生まれてくることと、死ぬことは表裏一体であり、何をしようが、どれだけのお金をもっていようが、絶対に過去に戻ることはできない。1年も1ヶ月も1週間も1日も1時間も1分も過ぎればすべて過去になり、二度と戻ることはできない。
 私のなかでの全人類に平等に与えられているのは「時間の流れ」だと考えている。しかし、その流れが長く続く人もいれば、短い人もいる。時には、差別や人権侵害によって幸せであるはずの人生が絶たれたり、個人の人生であるはずなのに、権力によって簡単に幸せを奪われたりすることは間違いなく不平等であり、許してはいけない。

 私は自分の人生の失敗談をもとに、学生時代に本来の自分を偽り、周囲の状況に流され、指摘しなければならないことについても、嫌われたくないという思いから逃げ続けた。全くもって自分らしさを貫き通せなかった情けない人生を送り、後悔ばかりしてきたことを伝えている。
 子どもたちの感想文には、私と同じような体験を持ち、自分を偽って生活していること、「辛い、悲しい、苦しい、淋しい」といった日常生活で抱えさせられている思いを最も親しい友人にさえ打ち明けていないこと、自分の目の前にある現実から逃げてきたことなどが7〜8割近くをしめている。

 自分の体験を話すことで、子どもたちがインターネットで中傷し、いじめる側に立つということが、一度きりの人生のなかで、「その行為は自分に誇りを持ってほしい」、「自分のやっていることを他人に誇りを持って言える人間になってほしい」ということを、願いを込めていつも話をする。「今は今しかない」のである。

 万人が限られた一度きりの人生のなかで、他人を傷つけるよりは、他人とつながることを選択してくれる人々を育む教育と環境と人との関係性が最も重要だと考えている。どれだけ偉業を成し遂げ自身が喜んでも、それをともに喜んでくれる人がいなければ寂しさが残る。どれだけ自分で自分を褒める出来事があっても、他者から褒められなければ真の喜びは実感できない。

その喜びをともにわかちあってくれる家族、親類、地域の人、友人、先生、職場の人のいずれかの人々が自分の身近にいる環境と関係性を、それを育む教育こそが、お金や物には変えることができない一人ひとりの幸せへの実感へとつながり、その環境や関係性に一人ひとりが一定の満足を実感できれば、他者を非難し、他者を差別し、他者の人権を侵害するという「他者にも自身にも」悲しく虚しい結果には結びつかないだろうというのが、私の極論であり、限られたこの一度きりの人生のなかでその目標に一歩でも近づくために取り組みを衰退させるわけにはいかない。

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