〜 インターネットから見える社会矛盾と人権 〜(第5部)
集団生活において、そこで築かれる人間関係に上下関係が生じてくると、その上下関係の下層に置かれた人(例えば、テストや成績、運動などの差、仕事ができる、できないなどが、人間関係にまで影響を与え、顕著に態度で表われてくる、他者との対応・態度が違うなど)は、上層の立場にいる人に対して、自己主張や反論をしにくい状況や関係があります。当然そのことで、その下層に置かれた人、また置かれていると感じている人はストレスを抱えてしまいます。
差があるというは当然のことですが、それが人間関係にまで影響してくると問題であると思います。
下層や上層という言い方は正しい表現ではありませんが、このつくられた人間関係の下層に置かれた人は、上層の人に対し「下克上」のような行動を起こすことは多くありません。それができているならば、すでに上下関係は解決にむかっています。
従来は、こういった状況において、下層におかれた人は「我慢」をしてきました。心の中でその不合理に対する感情を発散できない状態にあります。こんな状況は昔からありましたが、その状況のなかで、現代ではインターネットが入ってきています。
すると、この現実世界でつくられた上下関係があっても、電子空間(インターネット)では、すべて「フラット」な人間関係となります。 匿名という制度は、「名前、年齢、性別、役職」など一切を払拭し、誰もが自己主張しやすいよう、民主主義のために導入されたものです。
しかし、現実世界で上下関係の下層に置かれた人にとっては、「ついに上層の者に対抗できる手段を手に入れた」と感じてしまうようです。
そして現実世界での鬱憤をはらすかのように、電子空間内で匿名やハンドルネームで歪んだ自己主張や特定個人に対する中傷、場合によっては「社会的弱者」とされる人々に向けて差別的な表現をはじめてしまいます。それは極めて乱暴な言葉であり、人を傷つける言葉として自己主張されてしまいます。勉強ができないということでバカにされ、集団内で下層に置かれた人は、そのことについて、例えば、学力的なものであれば「大学出身はバカばっかりだ」ということで、「勉強できる人物」を不特定に攻撃したり、酷い場合には知的「障害」者という自分よりもさらに「教科学習という分野」ではできない人々に対して、酷い書き込みをしてしまうことを目の当たりにしています。
社会や職場、家庭内、近隣での周囲との関係やその環境などに不満を感じ、「対抗する、復讐する、報復する、見返してやる」などのさまざまな思考が、インターネットでのみ表現できることから、一時的なストレス解消をしているように見えます。あくまで一時的な解消ですので、根本は変わらずに、幾度となく同じような行為を繰り返している傾向にもあるようです。
電子空間でしか表現できないという、これまでの環境・教育・関係性があるのだと思います。「なぜ、この人たちはこんなことをわざわざするのか」「なぜ、こんな時間帯に、このようなことを書いているのか」「いったいどのような表情で、どのような心境で、どのような環境で他者を傷つける書き込みをしているのか」などについて、その原因・背景を探求することが大切です。ネット上の事例から学ぶということです。
何よりも私が感じていることとして、過去と比較してみると現代人は「自尊感情」が低いように感じます。自尊感情が低いことと、他者を大切にしないことは比例します。私のなかで言い切れることの一つです。
第4部にも掲載しましたが、ネットを使い他者を非難し中傷する人々に「自分の人生」について考えてもらうことが求められていると思います。誰もが「1度きりの人生」です。その限られた命のなかで、他者を非難する道を進んでいる人たちに、気づいてもらわなくてはなりません。今一度、自身の「行動・態度・言動・思考」について振り返ってもらわなくてはなりません。多くの人が「当たり前」のことを「当たり前」にできていないと感じています。一昔前の私もそうでした。自分を粗末にしていました。だから他者を大切にできませんでした。
そして、その「行動・態度・言動・思考」が自らに誇りを持って言えることであり、自信を持って他者に話せるものであるかを考えてもらわなくてはなりません。客観的に自分の行動を見つめてもらわなくてはなりません。それができれば、これらの問題をはじめ、さまざまな人権問題についても、本来持つべきこだわりを持たず、本来持たなくてもよいこだわりを持っていた自分と決別することができると信じています。