〜 インターネットから見える社会矛盾と人権 〜(第7部)
問題をどう捉えるのか、インターネット上で生じる問題だけではありませんが、私はよくこういった問題について人々は、「何に、どこに、どのように」その問題の現実を求めているのかというのが結構、気になります。
例えば、学校裏サイトや掲示板での差別書き込みの場合、人権侵害や差別的なものが「目に見える」かたちをもって、文書で書き込まれています。ただ、これに関して、「ネット上にこんなことが書かれることは問題だ」と思うのはいいのですが、そこに固執しすぎると、「消せばいい」という発想が生まれてくることがあります。「落書きが書かれたことは問題だが、そんなもの消せば済むじゃないか」という考え方です。
1995年1月17日、阪神・淡路大震災がありました。あの震災が起きてすぐに、マスコミは中継で報道をはじめていきました。私自身もニュースを見たときは驚きました。多くの家が倒壊、阪神高速は横倒し、あちこちで火事がおき、いたるところで煙があがっていました。「これは酷い」、私が真っ先に感じた思いです。この「目に見える被害の現実」をすべてだと捉えてしまうと、今や神戸の町並み、三宮駅周辺などは、もう当時の震災の面影すら残っていないことから、「震災当時は酷かったけど、今はこんなにも復興した。もう震災の爪痕は残っていない」となってしまいます。震災の被害は目出見えるものだけではないはずです。
次に、統計の数字から見える被害の現実です。私にとっては1年間に1件でも人権侵害や差別があれば、大きな問題であります。そういうことを意識するように心がけているといったほうが正しいかもしれません。本来あってはならないことが年に1回でも起きることは許されることではありません。しかし、人々のなかには、「今年はたった1件しかなかったのか」と思われる方がいます。そんな人がいるということも年間100回を超える講演やマスコミ取材、会議などのさまざまな場での人との出会いのなかで、そういった考え方の人がいることがわかってきました。
例えば、マスコミ取材でよくあることが、私に対する質問で「昨年、一昨年と比較して今年の中傷の件数はどうですか」「今年は何件ありますか」と聞かれることがよくあります。悪いことではありませんし、間違ってもいないとも思います。ただ、それを聞いてどう思うのかが、今後、その質問された方の取り組み方によっては問題とすべきことが生じてくるかもしれません。
例えば、近年、殺人事件は大きく報道されます。親が子を殺し、子が親を殺す、誰でもいいから殺したかったなどといった加害者の声や思いも報道で取り上げられるようになってきました。人によってはその報道になれすぎて、殺人事件に対する見方や意識、見解に変化が現れる場合があります。
生じた原因に対して意識や捉え方は変化するものだと思いますが、事件や死傷者数によって人の死が軽率に見られたり、重んじられたりするのは、私にとってはおかしいことです。無差別大量殺人事件と一人が殺害された事件、被害者家族にしてみれば、耐え難く、辛く、苦しく、悲しい出来事です。そんな体験のない私の思いですから、「お前に私たちの苦しみがわかるのか」と言われれば、「わかりません」としか言えません。想像しただけでも耐え難いことです。
学校裏サイトや差別事象についても、その問題が生じたこととその発生件数が、問題の深まりと比較されてはいけないと思います。この日本社会のなかで生じている人権侵害の件数や差別事件発生件数のすべてが把握できればこの上ないことです。私はできる限り三重県内で生じる問題のすべてを把握しようと取り組んではいますが、どう考えても絶対不可能です。それでも数字を意識される人がおり、その数字によって取り組みが変化してしまうようなことがある以上、意識を変えることのできる数字を示す必要はあると思います。
ここでも阪神・淡路大震災の状況について例えてみたいと思います。ニュース報道では、その現場の生々しい映像が上空からも撮られ、視聴者に大惨事の状況を伝えられていました。
震災から2日たったころ、報道の内容に変化が現れました。「死亡者O名、重傷者O名、軽傷者O名」「阪神高速は何メートルにわたって倒壊」など、具体的な統計の数字が出てきました。私自身の深まりも変わってきます。「うわ、酷い」という状況から、「O名も亡くなったのか」「Oキロで突っ込んだから、こんなになったのか」など、正直なところ、その数字によって問題にさらなる深まりが出てきたのは事実です。
すべて、その統計的な数字に被害の現実を求めてはいけません。人権侵害や差別事象などに限らず、多くの場合についても、統計的な数字は一部の実態の現れであり、その現実全てをまかなうことはできません。しかし、その実態をできる限り把握する取り組みがあり、できる限りの実態的な数字を示すなかで、人々に与える意識も変わってくるのは事実です。
最後に強調したいのは、人権侵害や差別を受けた人々、時には家族を失った人々、社会に出て行くことへ大きな不安を抱えさせられた人々の思い、そして、「当時の差別や人権侵害を受けてから今日まで、どのような影響が出ているのか」ということに着目し、その気持ちに寄り添うことが大切かと思います。
震災に遭った、心を傷つけられたことに対する思いは、当事者しかわからないのは事実だと思います。同じような体験をもっている人でも、捉え方の違いによっては被害の深まりも変わってきます。
震災で負った自身の身体的な傷が完治した、倒壊した家屋が元に戻ったとしても、目の前で家族が亡くなった体験を持つ人々、大切な友人・恋人などを失った人々は、時間の経過に癒やされてきても、ふとした会話などで、当時の思いがよみがえり、苦しさや悲しさを感じられていると思います。
阪神大震災で被災された方が、次のような手記を残されていました。 「妻が瓦礫の下に埋まってしまった。助けだそうとしたが、妻の体に瓦礫がのしかかり、手をいくら引っ張っても助け出すことができない。妻に頑張れと声をかけ続けてきたが、妻は返答をしなくなり、握り締めていた手はじょじょに冷たくなって息絶えていった。
私はあの時の妻を助け出せなかった悔しさと、じょじょに冷たくなっていたあの手の感触は、死ぬまで忘れることはないだろう」。
震災や事故、殺人事件などは多くの人々の人生を奪い、悲しみや苦しみを生み、今なお被害者やその家族を苦しませています。差別や人権侵害でも同じような現象は生じています。インターネット上での問題についても、ここまで問題を深めることのできる取り組みが必要であると思います。