〜 インターネットから見える社会矛盾と人権 〜(第8部)
インターネット上の差別事象・人権侵害に対して職務としての取り組みと、個人として取り組んできたなかで、この問題だけでそう認識したわけではありませんが、「差別はいけない」「いじめはいけない」「人権侵害はいけない」という意識は多くの人が持っているでしょう。しかし、現実にインターネット上では極めて悪質な差別書き込みや人権侵害に関する書き込みが氾濫し、時には人を死にまで追いやる現実があります。
「差別はいけない」と同様に、「インターネット上で人を傷つける行為をしてはならない」ということが多くの人が認識されていることでしょう。しかし、これまでの報道や反差別の取り組みのなかから取り上げられてきた問題を見ても、「いけない」ということと、「しない」ということはイコールではないということがわかるかと思います。「してはいけない」が「しない」ことまで結びつかない、結びついていないということであり、何か課題が出てきたときに人権侵害や差別を「してしまう」ということです。
「差別はいけない」という人が「差別をしない」とは限りません。「いじめはいけない」と意識している子どもであっても「いじめをしない」とは限りません。当然、これらはすべての人にあてはまるものではありませんが、インターネットを悪用し、人を傷つける行為を実際にしてしまったという現象面だけで言うと「加害者」である子どもたちの心境からしても、「人を傷つけてはいけないことくらいはわかっていた」というのが、かなりの割合をしめています。
私なりの考察として、個人に対する批判は自由ですが、そうではなく、人を批難したり差別的な内容の書き込みをする人々の多くは、「差別はいけない」、「人を傷つけてはいけない」ということは教えられたり、社会的に躾られてきたかと思います。しかし、それが自分にとって「無意味である」ということは教わってこれず、また意識できなかったんだと思います。だから、「社会に貢献するような活動に限られた人生を費やし後生に何か自分の実績を残そう」などと考えられず、人を批難し、差別し、傷つけるという行為に、その貴重な時間を費やしてしまうということにつながってしまうのではないでしょうか。勿論、そんなことを考えられる、さまざまな要因からなる「生活面や心の『余裕』」がないということもあるかと思います。
結局のところ、他者を傷つけることが一時的なストレスの解消にはなるかもしれませんが、自身がそういった人を傷つけるという行為に至っている「日常のなかの課題」は根本的に解決されず、自身をそういったところに追い込まれ続けているということも、現実世界で取り組まれるべき「インターネットから見える課題」の一つだと思います。
インターネット上で他者を誹謗・中傷する人々は何らかの課題を背負わされていると思います。行財政の縮小は社会問題を悪化させると言われていることから、まだまだこれらの問題を解決するのは至難の業だと思います。
インターネット上に反映されてくる差別書き込みや人権侵害が生じる原因の一部には、以前も掲載しましたが、
・「家族に対する不安・不満」
・「日常生活に対する不安・不満」
・「職場・学校・友人などの対人関係における不平・不満」
・「自身の努力や成果に対する評価が低いことへの不平・不満」
・「仕事がないということへの不安・不満」
・「社会的に優秀とされる高校や大学を卒業しても、それに見合った職がないという不平・不満」
などがあると思います。悩みや苦しさ、辛さ、悲しさ、不安、不満などは、「人との関係」において生じることがあります。ときには、これらを「他者と比較する」ことで生まれてくる場合もあります。その場合、自分に無いものを他者が持っているとうらやましく感じ、しばらくすると、それがねたみなどに変わったりすることもあります。それは自己否定観を生みやすくし、長期にわたると自尊感情が低下していくこともあります。そして「自分を大切にしなくては」という意識が失われ、それによって他者を尊重する意識など芽生えなくなり、人を傷つけるという行為に至り、そこに限られた人生の時間を費やしてしまいます。あくまで一例です。
これらを自分自身だけの力ではどうしようもできない状態にあり、それを相談に乗ってくれたり、支援してくれる「関係」がない場合、表現の仕方は問題かもしれませんが、「問題が生じてきやすい」要素が整ってしまい、例えば、ネット上でこれまで述べてきたような問題として反映されてきたりしていると思います。
何度も述べますが、「差別や人権侵害、いじめなどが許されないことであるとの自覚によって問題を解決していくことを目指す」というよりは、それら他者を傷つける行為そのものが自分にとって「全く無意味であることへの気づき」によって、インターネット上で生じる問題だけではありませんが、解決に向けての一つの取り組みとなるのではないでしょうか。
最後に、何に関してもそうですが、取り組みというのは、それを態度や行動にうつしてはじめて「取り組み」となります。しかし、しっかりと事例を分析する必要もあります。長くは述べませんが、「核の廃絶」のために世界中でさまざまな取り組みが起きているにも関わらず、「核兵器が増えている」現実があります。核廃止を願うのであれば、その現実をしっかりと直視し認識した上で、「なぜ取り組んでいるのになくならず、増えているのか」について議論・分析・精査をする必要があると思います。
同じことをやっていても問題は解決しません。一昨年度と今年度、私なりに取り組んできましたが、個人的な取り組みである学校裏サイトのチェックでも人権侵害事例は50件以上も増加しています。インターネット上の危険性についても、マスコミやさまざまな機関が教育・啓発してきましたが、年々増加しています。何か取り組み方が違うのではないかと思います。しかし「寝た子を起こすな」というように放置することはできません。これまでおとなの知らないところで、子どもたちは甚大な被害に遭ってきた現実があります。「知らないことで問題に対しての取り組みがなされず、問題だけが次々と生じてくる」ということです。このことについても、しっかりと考えていく必要があると自分に言い聞かせています。